闘うドクター
小松裕(こまつ ゆたか)の公式サイト。

小松ゆたかの志

私は故郷の信州大学医学部を卒業後、東京大学病院などで勤務医・研究者として、診療や医学研究、学生や若い医師の教育に携わりました。東京大学の消化器内科では「胆膵」(胆のう、胆管、膵臓)という新しい専門グループをゼロから立ち上げ、そのリーダーとして10年で世界的なチームに育て上げました。
平成17年からは国立スポーツ科学センターに赴任し、スポーツ内科医としてトップアスリートの医学的サポート、障がい者スポーツの支援、アンチ・ドーピング、熱中症の予防啓発など、日本のスポーツ医学をけん引しました。

その様な中、新研修医制度をきっかけに地方での医師不足や、都会での救急車のたらいまわしなどが社会問題となり、その根本的な解決のためには政治の力が必要であると強く感じたのです。どんなに医学が進歩してもそれを支える仕組みを作る政治がしっかりしなければ多くの命を救うことができない。医療現場の声も全く政治に届いていない。だったら俺がやってやろう。
これが医師から政治を志そうと決めた私の原点です。
同時にスポーツの現場に深くかかわりながら、「スポーツの力」を肌で感じ、健康のためのスポーツ、地域のつながりのためのスポーツ、青少年の健全育成のためのスポーツ、これらスポーツの力を社会の中で生かしていかなければならない、ここにも政治の力が必要だと感じました。

政治の勉強や選挙の手伝いなどを続けながら、平成24年の秋に衆議院長野県第一選挙区の公募で選ばれ初当選、衆議院議員を二期5年務めました。健康、社会保障、スポーツ、障がい者支援、女性の活躍支援などにかかわる多くの法案の作成に与党として関わり、「政治が社会を変えることができる」と実感してきた中、平成29年三回目の選挙で落選し、令和元年には参議院長野県選挙区に挑戦し、再び敗れました。

無念の思いにかられていた3ヶ月後、長野県は「台風19号」による大きな災害に襲われました。私は被災地を何度も訪れ、ボランティアで泥かきの作業をし、医師として避難所での健康相談などを行いました。実際に被災された皆様がどんな思いをされているのか、どれだけ不安な日々を過ごしているのか、ある意味、落選したからこそできる貴重な経験もさせていただきました。やはり「政治が命と暮らしを守るのだ」と改めて実感しました。

台風からの復興もままならぬ中、今度は世界中を「新型コロナウイルス」が猛威を振るい、私たちの生活を一変させました。一人の医師として、正しくわかりやすい新型コロナの情報を発信し、PCRセンターの立ち上げや、実際のPCR検査の実施なども行ってきました。新型コロナから命を守り、暮らしや経済も守らなければいけない。なにより、一日も早く新型コロナを終息させなければ全てが始まりません。こうした時だからこそ、政治と医療を繋ぐ役割を、現場をよく知る医師である私が担いたい。改めて私が政治を志した原点を思い起こしました。
令和3年4月、突然行われることになった参議院長野県選挙区の補欠選挙に「新型コロナで日本中が大変な思いをしている今だからこそ、命を守る政治を医師である私に託してほしい」と覚悟を決めて再び挑戦、しかし、かないませんでした。

落選直後から、新型コロナの収束に向けて一医師としてできるだけのことをやろう、とワクチン集団接種の問診を連日行い、医療関係者、自治体関係者、接種を受ける皆さんの声や不安を聞き、それを政治に繋げたいと感じました。様々な情報が飛び交う中、SNSやYouTubeで新型コロナの正しくわかりやすい情報の発信も続けました。2020東京オリンピックパラリンピックでは日本選手団の新型コロナ対策という大役も担いました。

令和3年10月、衆議院北陸信越ブロックでの繰り上げ当選が決まり、10日間の短い任期でしたが衆議院議員三期目を務めました。久しぶりの本会議場で、改めて政治を志した原点と責任を体で感じました。

「いま与えられた立場で一生懸命に頑張れ、みんながそれを見ているぞ」 36年前に尊敬する恩師に頂いた言葉です。

その後も、与えられた立場で今できることを常に一生懸命やってきました。
この度、再びスポーツの世界からお誘いをいただき、ナショナルトレーニングセンターの副センター長として、2024年パリでのオリンピック・パラリンピックに向けての重責を担うこととなりました。

いったん政治はリセットしますが、どのような立場であっても目指すところは同じです。私の志は変わりません。パリに向けて2年間、今まで通りに与えられた立場で頑張る、そうすればまた道が拓けてくると信じています。

令和5年1月
小松 ゆたか