アスリートを勝利に導く環境づくり

2009年5月「e-resident」掲載

スポーツ選手が世界の舞台で勝つために最高のコンディションを用意してあげるのがスポーツドクターの責務です。メディカルチェックなど医師としてのアプローチは当然のこと、食堂や風呂場でのちょっとしたコミュニケーションも軽視できません。

スポーツドクターの役割は「選手たちが最高のコンディションで練習や試合に臨めるようにするための手伝い」であることを前回書きました。今回は、オリンピック選手たちが日ごろどのようなメディカルサポートを受けているかについて紹介します。

わたしが勤務する国立スポーツ科学センター(JISS)は、文部科学省の「スポーツ振興基本計画」に基づき、「国際競技力向上」を目的として、2001年に東京都北区西が丘に設立されました。都営三田線の本蓮沼駅から徒歩10分、JRの赤羽駅あるいは十条駅からはタクシーでワンメーターという立地。「西が丘サッカー場」も同じ敷地内にあります。母体は「独立行政法人日本スポーツ振興センター」で、JISS以外にも、国立競技場の運営や、スポーツ振興くじ(toto)の収益を基にしたスポーツの支援なども行っています。

JISSにはスポーツ医学、スポーツ科学、スポーツ情報の3つの研究部があり、互いに連携して競技力向上のための事業を展開。医学研究部はJISS内にクリニックを持ち、日々トップアスリートのためのメディカルチェックや診療、研究などを行います。

―世界で勝つためのメディカルチェック

メディカルチェックとは、オリンピック選手のための人間ドックのようなもの。「最高のパフォーマンスを発揮するために何か医学的な問題点がないか」という観点でチェックが行われます。実際には、内科、整形外科、歯科の診察、アンチドーピングにかかわる問診や婦人科的問題点の問診、レントゲン、血液、尿、心電図、心エコー、呼吸機能などの検査、そのほか科学的な測定、栄養チェック、メンタルチェックなどを行います。そして「世界で勝てる選手になるための問題点」を洗い出し、それを選手にフィードバック。同時に、競技団体のメディカルスタッフや強化スタッフと連携をとって、その問題点の解決にもかかわります。問題点が解決できているかもチェックするのです。この点がとても重要です。

トップアスリート専門の外来診療も行われます。ここでは、内科および整形外科の診療に加え、非常勤スポーツ専門医による歯科、皮膚科、婦人科、耳鼻科、眼科、心療内科の外来があります。

選手たちを診察していると、自分の身体のことやコンディショニング、アンチドーピングなどにどのくらい興味があるか、理解しているのかが分かります。もちろん、オリンピックのメダリストレベルの選手たちは、自分で自分の身体を管理して、よいコンディションで試合に臨まなければ勝てないことを十分理解しています。

しかし、ジュニアの選手やこれからオリンピックを目指す選手たちは必ずしもそうではありません。例えば、最近受けた治療について聞いても、「治療内容がよく分からない」、「飲んだ薬の名前を答えられない」といった状況です。診察しながら指摘すべきだと感じた時は、「自分の身体を知ることがとても大事なのだよ。オリンピック選手たちは、飲んだ薬の名前をすぐ答えられるし、自分の身体のことをよく分かっている。そういうことも勉強しながらオリンピック選手を目指してね」と投げ掛けると、たいていの選手は目を輝かせながら真剣に話を聞いてくれます。

―寝食を共に「チームジャパン」の意識を創出

2008年には、JISSに隣接して、長年スポーツ界の悲願であったナショナルトレーニングセンターが開設しました。この5月からはネーミングライツが導入され、「味の素ナショナルトレーニングセンター(味トレ)」と呼称変更されました。味トレは各競技の専用練習場を備えた屋内外トレーニング施設、宿泊施設などを備え、JISSと連携を図りながら、スポーツ科学、医学、情報を取り入れた効果的なトレーニングを行って国際競技力向上を図ろうというものです。

宿泊施設は「アスリートヴィレッジ」と呼ばれ、約250人が収容可能。部屋には、バスケットボールやバレーボールなど体格の大きな選手でもゆったりと眠れる大きなベッドがあり、「サクラダイニング」というレストラン、「勝湯(かちのゆ)」というサウナ付きの大浴場、大小の研修室などを備えます。アスリートヴィレッジの名の通り、オリンピックの選手村をイメージした施設です。各競技間で連携を図り、同じ場所で練習し、寝食を共にすることにより、「チームジャパン」としての意識が目覚めます。味トレの開設にともないJISSクリニックへの来院選手も増加し、その役割が大きなものになっています。

―“空気が読める”能力が不可欠

わたしもしばしば、サクラダイニングで食事をしたり、仕事が終わった後に勝湯でひと風呂浴びたりします。そこにはさまざまな種目の選手たちや指導者がいますから、ちょっとしたコミュニケーションをとる場になります。さまざまな相談を受けることもあれば、「こんにちは」とただ挨拶するだけの時もありますが、そうした繰り返しが選手たちとの信頼関係を得る上で大事だと思っています。

ただし、積極的に声を掛け過ぎるのも禁物です。先日、勝湯である選手と2人だけだったことがありました。挨拶は交わしましたが、あえて話し掛けませんでした。一人で静かにゆっくりと風呂につかりたい時だってあります。選手たちは皆礼儀正しいですから、話し掛ければきちんと答えてくれるでしょう。でも、時にはわずらわしいこともあるはずです。そんな雰囲気を察知する能力もこの世界には必要。“うざい存在”にだけはならないよう気を付けなければなりません。

来月はセルビアのベオグラードで大学生のオリンピック「ユニバーシアード競技会」が開催されます。わたしも日本選手団の本部ドクターとして帯同します。次回は、ベオグラードからお届けします。