新しい世界ドーピング防止規定

2009年2月「e-resident」掲載

―アンチドーピングに立ち向かう

2009年1月1日付で、「世界アンチドーピング規定(WADA code)」の改訂版が発効しました。ドーピング禁止薬物の禁止リストは毎年更新されるのですが、今回はアンチドーピングの憲法ともいうべき規定が改定され、より毅然とアンチドーピングに立ち向かう姿勢を示しています。

日本のスポーツ界では、ドーピングを行おうと考える選手はほとんどいません。これは、「正々堂々と戦う」、「ずるをして勝つのは卑怯者だ」という日本古来の「武士道精神」にもよるものかもしれません。ですから、日本においては、「風邪薬などにも含まれることのある興奮剤などで、うっかりドーピング違反になることを防ごう」といういわゆる「うっかりドーピング」対策のための教育が多くなります。私のところにも、「この薬を飲んでも大丈夫か?」といった問い合わせがしょっちゅう来ます。日本のアンチドーピング活動は、「性善説」に基づいて行う方が選手の理解は得られます。

しかし、世界はそうではありません。2004年に行われたアテネオリンピックでのドーピング違反は24件でした。そして昨年の北京オリンピックでは、今のところ9件のドーピング違反が明らかになりました。「今のところ」と書いたのは、保存検体の検査で、将来ドーピング違反が発覚する可能性もあるからです。もちろん日本選手団はでゼロでした。

まず、この「アテネで24、北京で9」という数字を見ただけで、日本人にとっては驚きです。オリンピック選手ともあろうものがこんなにずるをしているのか、と思ってしまいます。ところが、武士道精神など存在しない、勝つためには何をしてもよい、ばれなければよい、と考える人たちのいる多くの国に対しては、当然アンチドーピングの立場は「性悪説」をとらざるを得ないわけです。「アテネより北京でドーピング違反が減ったのは、選手たちがドーピングをしなくなったからではなく、ドーピング逃れをしているからだ」と考えてしまうのです。

国際レベルの選手たちは、試合の時だけではなく、1年中いつどこでも事前通告のないドーピング検査を受ける義務を負います。競技会外検査、いわゆる「抜き打ち検査」です。新しい規定では、この抜き打ち検査を重視する姿勢が示されています。

選手たちは、「居場所情報」という、いつどこで何をしているのか、という情報を提出する義務があるのですが、新しい規定ではより詳細な居場所情報の提出を求められるようになりました、1日のうちで60分間を指定して、その時間と場所にいつドーピング検査に来てもかまわない、という情報を提出しなければいけません。そして、居場所情報の提出を怠ったり、指定した60分間の場所にいなかった場合、それらが続くと禁止薬物が検出された時と同じようにドーピング違反となります。

―アンチドーピングの知識を

喘息の選手にとっても、より厳しいものに変更されました。何か病気を抱える選手が治療のためにドーピング禁止薬物を使用する場合には、TUE(治療目的使用に係る除外処置)を申請して、承認を得た上で使用することができます。喘息の場合には気管支拡張薬であるベータ刺激薬(サルブタモールやサルメテロール)の吸入は禁止薬物であるため、いままでもTUEの申請が必要でした。ただし、「気管支喘息」と病名を書くだけで使用が認められていました。新しい規定では、病名を書くだけではなく、詳細な病歴や、気道可逆性試験(スパイロメトリーを行い、気管支拡張薬を使って1秒量が12%以上増加することを示す)や気道過敏性試験(運動負荷試験やメサコリン試験で1秒量が低下することを示す)などの結果の添付を求められるようになりました。すなわち、客観的に喘息であることを証明しなければいけないわけです。メサコリン試験などは通常の喘息診療では行われる検査ではないですから、スポーツ選手だけに余分な検査が加わってしまいました。これも、世界では「喘息」とウソをついて、筋肉増強剤であるベータ刺激薬を使う選手がたくさんいるからです。

国際社会において文化や伝統が違うそれぞれの国が共通のルールで物事を進めるときは、同じようなことがたくさんあるのだろうと思います。ビジネスや政治の世界でもきっと同じですね。

いままでも、私はしばしばアンチドーピングのことについて書いてきました。これは研修医や医学生の人たちに、少しでもアンチドーピングの知識を身につけてほしいからです。なぜなら、選手たちから、「病気になって病院に行ったけれど、ドーピングのことがよくわからないからと言って薬を出してもらえなかった」とか「TUEを書いてくれと言っても何の事だかわからず相手にしてもらえなかった」というようなことをよく聞くからです。細かな知識は必要ないけれど、せめて「どこに聞けばわかる」くらいの知識を持っていてくれれば選手は助かります。

3年前、日本がアンチドーピングの世界条約を批准するにあたっての会議のために何度も文部科学省に行きました。その時、「国をあげてアンチドーピングに取り組むのであればすべての医者がある程度の知識を持つべきだ。一言でいいから医学教育にも取り入れてほしい」、「保健体育の授業にも一言入れたらどうだ」、「室伏選手の繰り上げ金メダルなんかは、正義が勝つ、という話として道徳の授業の材料に最適じゃあないですか」なんてことを発言したけれど、どうなっちゃったんだろう。たしか、「前向きに検討します」なんて答えていたような気がする。なるほど役人の答弁というのはこういうことなのか、とつくづく納得する今日この頃です。