ほろ酔いコンサートとゴスペラーズ

2009年1月「e-resident」掲載~加藤登紀子さん「ほろ酔いコンサート」

―加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート」

毎年暮れに新宿のシアターアプルで行われるこのコンサート、客にはコップ酒がふるまわれ、ステージ上の登紀子さんも飲みながら語って歌います。6年前からはゴスペラーズのリーダー、村上てつやと一緒に来て、時には村上はステージに上がり登紀子さんと一緒に歌って、コンサートの後はみんなで一緒に酒を飲む、私にとっては暮れの一大行事になっています。そして、このコンサートは私にとって「特別な想い」があります。

誰もが、孤独で不安な青春時代、「自分はこれからどうなるのだろう?」、このままいけば医者になることが決まっていて、バスケットボールという打ち込むものがあった私でも、人並に、青春時代特有な孤独と不安がありました。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」、高野悦子さんの残した言葉を読んで、感じ入っていたあの頃です。

大学時代のある日、下宿でテレビをつけると、登紀子さんがレポーターとして女子少年刑務所に訪れている番組がやっていました。

「人生でためにならない経験なんて一つもないのよ」

罪を犯した少女たちに語りかける登紀子さん。

人間加藤登紀子に対する興味が降って湧き、それから、登紀子さんの昔からのアルバムを買い、聞きまくりました。ちょうどそのころ、登紀子さんは「ほろ酔い行進曲」という本も出して、それを読んだらますます好きになって、次第に加藤登紀子は私の中で「神」となっていったのです。

「いつか行きたい」と思っていたほろ酔いコンサート、1986年の12月30日、研修医として東京に出てきた初めての暮れ、ついにチケットを手に入れることができました。

「ようやく神に会える」、そう考えただけで、いてもたってもいられなくなってしまった私は、開演時間の3時間も前に新宿に着いてしまいました。

「お登紀さんならゴールデン街しかない」

そう考えた私は、新宿ゴールデン街に向かいました。

早い時間でしたが、たまたまあいていた店にふらっと立ち寄り、「電気ブラン」を何杯も飲みました。「今から神に会える」と考えただけで恥ずかしくなってしまって、グイグイ飲みました。

2時間ほどで店を出た時にはかなりの泥酔状態、会場のシアターアプルに着いて、またコップ酒をもらい客席に着いてから一気飲み、そして会場が暗くなり、とうとう神が登場しました。

そこまでは記憶があります。そして、気がついたら会場のアンコールの拍手で目が覚めました。酔っぱらって、客席で寝てしまったのです。

来たくて来たくて仕方がなかった「ほろ酔いコンサート」だったのに・・・

本当に、おバカな私。

その後は、そんなバカな過ちを犯すことなく、毎年のように来ていたのですが、今から9年前、音楽のプロデュースをしている高校の同級生から電話がありました。

「ゴスペラーズっていう歌手の面倒を見てるんだけどさ、花粉症がひどくてレコーディングがうまくいかないのよ。ヨタ(高校時代の私のあだ名です)なんとかして」

その晩、初めてリーダーの村上てつやと新宿の焼き鳥屋で会いました。ゴスペラーズがまだ今ほど有名ではなかった頃です。花粉症の件はすぐに片がついて、その後はなぜか意気投合して遅くまで飲みました。話題はほとんど加藤登紀子さんの話とスポーツの話。そして、それがきっかけで私はゴスペラーズのチームドクターになりました。

―ゴスペラーズと一緒に

いつの間にか彼らは紅白にも出場する偉大な歌手となり、同時に村上は登紀子さんの歌を作ったり、レコーディングに加わったり、一緒にコンサートをやったり、と加藤登紀子とゴスペラーズがくっついてしまったのです。

前置きが長くなりましたが、そんなわけで暮れの「ほろ酔いコンサート」にはゴスペラーズ一族と毎年一緒に行くことになったのでした。

今年のコンサートも素晴らしかった。

孤独で不安で未熟で、お金がなくてもたくさんの夢があったあの頃をよみがえらせ、「でもまだまだ息がきれるまで走らなきゃだめよ」って尻を叩いてくれる。

私をはじめ多くの登紀子ファンは、彼女の歌や、語りに登紀子さんの生き方を感じ、そして自分の人生に重ね合わせるのです。しかし、登紀子さんの偉大なところは、そんな「懐かしさに浸っている私たち」を尻目に、さらに進化を続け、さまざまな歌を歌い続け、後ろなんて振り向かない。「懐かしさに浸っているんじゃないわよ」ってな感じです。やっぱりスゲーなあ。

コンサートの後、村上はレコーディングがあるとのことで行ってしまいましたが、ゴスペラーズの演出家の小池さんと二人でしみじみ飲みました。いつまでもいつまでも夢を持ち続けなきゃだめだ、なんてことを話していたような気がする。

「来年はどんなことがあるのだろう」、とわくわくしながら、またしても、ほろ酔いならぬ泥酔状態で家に着いたのでした。