お母さんからの手紙

2008年4月「e-resident」掲載

―一通の手紙

先週、1通の手紙が私の職場JISSに届きました。

「桜だよりも聞かれる今日この頃です・・」で始まるその手紙には、最愛の娘さんが力尽きてお亡くなりになったことが記されていました。

Hさんは膵がんでした。

私がまだ東大病院にいた平成16年の暮に彼女は入院し、検査の結果、肝臓にも大小の転移をたくさん認めるステージ4Bの膵がんと診断されました。

かなり進行した膵がんであることを告知したあの日のことは今でもはっきり覚えています。涙も見せずに気丈にというか淡々と私の話を聞き、「あとどのくらい生きられますか」と彼女は聞きました。私はわれわれの経験した200人を超える膵臓がんの患者さんの生存曲線のデータを示し、「ただこれはあくまでデータですから、ひとりひとりがどれくらい頑張れるかはわからない。やれるだけの治療をやるだけです」と答えました。

彼女は41歳でした。

抗がん剤の投与を開始し退院したHさんは外来で治療を続けることになりましたが、すぐに私は消化器を離れスポーツの世界に移りました。最後の外来の時に彼女から渡された手紙には、「がんの告知という、つらい役割を引き受けてくれた小松先生に感謝しています」と書かれていました。一番つらいのは本人なのに。

それから、3年近く経った昨年の10月、HさんからJISSに電話がありました。どうやら、私がJISSにいることを知り、というか、移動した直後から知っていて、この連載エッセイも毎月読んでいたようです。「治療がなかなかうまくゆかなくなってきた、相談に乗ってくれませんか」とのことでしたので、「医学的な質問には答えられないけれど、それでもよかったら」と、訪ねてきた彼女と1時間ほど話をしました。消化器・胆膵のことは後を託した後輩たちに任せてきたので本来は会うべきではない、とも思いましたが、彼女に「治る可能性が極めて少ないがんである」ことだけを話して無責任にも大学を離れた私にしてみれば、「申し訳ない」という気持ちもありました。

上品な雰囲気、落ち着いたしゃべり方、3年前のままです。

「私が3年後に生きてるって思ってなかったですよね」

「私、まだまだ頑張りますよ」

確かに、3年後に元気なHさんに会えるとは思ってもいませんでした。1年頑張れればいい方だと思ってた。正直にそう答えました。がんの治療をしながら、副作用とも闘いながら、それでも前向きに生きている。海外にも行ったり、1か月前には屋久島に行ってきた、と私に話しました。

その後どうしてるだろう、と気にはなっていたのですが、3月の初めにK病院のO先生から電話がありました。「先生、Hさんをご存知ですよね。今うちの病院に入院しているんですが状態があまり良くありません。本人が電話でいいから小松先生と話がしたいと言っているんですが・・・」

その日の夜、仕事の帰りに彼女を訪ねました。

だいぶやせたけれど、元気な声で「まだまだ頑張りますからね」と言う彼女と握手をして病室を出ました。

お母さんからの手紙にはその4日後に亡くなったことが書かれていました。

―医者のやりがい

医者をやっていると誰にでも「心に残る患者さん」がいると思います。私にも顔や名前がすぐにうかんでくる患者さんたちがたくさんいます。でも、その多くが自分の力や医学の力が及ばなかった人ばかりです。治療がうまくいって元気で退院していった人たちもたくさんいるはずなのに、なぜか亡くなっていった人や場面ばかり頭に浮かんでしまいます。

私と同じ年の子供がいたSさんは、膵がんの告知した後、「先生なら自分が3年後にはこの世にいないことを子供に話しますか」と聞きました。

クリスチャンであった胆嚢がんのMさんはすべてを受け入れて、最期までにこにこしていました。

無口な板前のKさんはつらい治療を続けながら、一度も病気のことを私に聞きませんでした。

みんな亡くなりました。

そのたびに、「医学の進歩に貢献しなくちゃ、がんを治る病気にしなくちゃ」と少なからず感じるのです。実際、身内の死を間近に見て医者を志した人もたくさんいると思いますが、そういう気持ちは医者である限りは持ち続けなければいけないものでしょう。病室で患者さんの手を握ってやることが医者の仕事ではないかもしれないけれど、「患者さんのために」という気持ちを持ち続けるにはそれも必要なことだと思う。

スポーツ医学の世界も楽しくて、魅力的な世界だけれど、普通の医者も楽しくてやりがいがあるよなあ、とあらためて感じたのでした。