スポーツ選手と喘息

2008年3月「e-resident」掲載~北京オリンピック候補選手たちの派遣前メディカルチェック

―日本は遅れている

8月の北京オリンピックに向けて、候補選手たちの派遣前メディカルチェックが始まりました。メディカルチェックの内容は、内科・整形外科・歯科の診察、女性選手に対する婦人科的な問題点の問診、血液検査、心電図、胸部レントゲン、心エコー、呼吸機能検査などです。選手たちが最高のコンディションで最高のパフォーマンスを発揮できるように医学的な問題点をチェックして、本人や現場にフィードバックします。

ご存じのように北京オリンピックに関しては、食事や水、大気汚染などさまざまな点を懸念する声も聞かれます。しかし、中国も国の威信をかけて行う大行事なのですから、最終的にはしっかりとした大会運営が行われるはずだと確信しています。ただ、医学的に言うと、北京の大気汚染はちょっと心配です。スケートの清水宏保選手が気管支喘息であることは有名で、本人も公表して喘息の正しい治療の普及に一役買ってくれていますが、もちろん夏季競技で活躍する選手の中にも喘息の選手がいます。それらの選手が、万全のコンディションでオリンピックに臨めるように手を尽くさなければいけません。

この、「アスリートと喘息」に関しては、最近のわれわれの研究で色々なことがわかってきました。

約3年前、国立スポーツ科学センター(JISS)に赴任した当初、トップアスリートを対象にした外来で何人かの気管支喘息の選手を診ました。喘息の診察なんて20年ぶりで、研修医時代以来です。「たしかあの頃は夜間に発作で訪れる子供たちにまずベネトリンとビソルボンを混ぜて吸入させて、よくならなければ点滴をしたなあ」、まあその程度の知識でしたから、さすがにちょっと勉強しました。そして、お恥ずかしながらその時はじめて、気管支喘息の標準的治療は「ステロイド吸入薬による長期管理」であることを知りました。呼吸器の専門の先生の話だと、日本はこの標準的な治療に関してまだまだ遅れているのだそうです。

―アスリートの喘息研究

喘息の選手たちを診ながら、「トップアスリートの喘息罹患率はどれくらいなのだろう」、「選手たちはきちんとした治療を受けているのだろうか」、当然そのような疑問が降ってわき、さっそく2005年度の1年間にJISSでメディカルチェックを行った2486人のトップアスリートのカルテをすべて調べてみました。その結果、2486人のうち42人、全体の1.7%のアスリートが気管支喘息と診断されていることがわかりました。さらに驚くべきことに、その42人のうち、吸入ステロイドによる長期管理を受けていた選手はわずか2人だったのです。「喘息がコントロールされなければよいパフォーマンスが出るはずのないトップアスリートたちが、今までまともな治療を受けていなかった」という実態が浮かび上がりました。これには、選手たちの練習や海外遠征などのスケジュールが過密で定期的に通院できないことや、主治医がいないこと、などの理由もありますが、なにより、スポーツ医学の世界自体が喘息の知識に乏しく、その重要性に気が付いていなかったということなのかもしれません。「何とかしなきゃ」と思うと同時に、これだけしっかり診断・治療されていない選手たちが多いということは、もしかするともっとたくさん喘息のアスリートがいるかもしれない、と感じました。

そこで、次に行ったことが、いままであまりやっていなかったスパイロメトリーをメディカルチェックの際に積極的に導入することでした。人手や機械の関係で全選手には行えなかったのですが、気管支喘息と診断されている選手だけでなく、「小児喘息だったけれど今は治って全く症状がないという選手」や「詳しく問診するとどうも喘息が疑われる選手」に対して、スパイロメトリーを行いました。すると、またまた新しい発見が。

これらの「喘息と診断されていない選手」でスパイロメトリーを行った69人のうち13人が、「1秒量、1秒率が低下し、さらにサルブタモールの吸入で1秒量が12%以上改善」すなわち、気道可逆性試験が陽性で客観的に気管支喘息と診断されたのです。今まで気づかれていなかった「かくれ喘息」の選手たちの存在が明らかになりました。積極的にスパイロメトリーを導入することにより、「少なく見積もってもトップアスリートの6%以上が喘息らしい」ということがわかってきたのです。昨年秋の日本臨床スポーツ医学会で発表しました。

ということで、これらの結果を踏まえ、北京での大気汚染も考慮して、今回の北京オリンピック派遣前チェックからは全員に「呼吸機能検査」を行っています。今後、トップアスリートの気管支喘息の現状がより明らかになるでしょう。

現在、呼吸器学会やアレルギー学会の先生方にもアドバイス、ご協力いただいて、選手たちが日本のどこにいてもしっかり喘息の診断や治療ができるしくみづくりを始めています。喘息の治療に用いる吸入ステロイド薬や吸入やベータ刺激薬はドーピング禁止物質です。ですから、使用するにはTUEというドーピング禁止薬物を使用するための申請書を提出しなければいけません。アンチドーピングの知識を全国の呼吸器の先生方に知っていただくことも大事です。「喘息の治療をすることで本当にパフォーマンスが向上するのか」といったことも明らかにしていかなければなりません。そしてこれらのことが、「日本が世界で強くなる」ことに少しでも貢献できたらいいなあ、と思います。

こんな風に、きっと、医学の世界では身近なところにもまだまだいろいろなネタが埋もれていますよ。もちろん、ただ単に興味本位だったり、論文を書くためだけのネタではなくて、「世の中のためになる、患者さんのためになるネタ」がね。