あの強い吉田選手が負けた

2008年2月「e-resident」掲載中国・太原、第8回レスリング女子ワールドカップ

―吉田選手の笑顔が消えた

1月19日、20日に第8回レスリング女子ワールドカップが、中国・山西省太原で開催されました。この大会は国同士が戦う団体戦です。日本、中国、アメリカ、ウクライナ、カザフスタン、カナダの6カ国が参加しました。日本チームは、吉田沙保里選手や伊調姉妹といった北京オリンピックへの出場が決定している選手たちも加わり、私はチームドクターとして約一週間帯同しました。

初戦でウクライナを破ったものの、2回戦で「119連勝」という連勝記録を更新中であった吉田選手がまさかの敗退を喫してしまいアメリカに敗れて決勝に進むことができませんでした。日本は銅メダルに終わりました。

しかし、「吉田選手が負ける姿」を目の前で見ることになるとは思ってもいませんでした。

第1ピリオド、第2ピリオドとも微妙な判定でした。二つとも仕掛けたタックルを返され、ビデオ判定の結果、相手のポイントとなってしまいました。反撃する時間もほとんどなく、そのまま終了のブザー、呆然と血の気の引いた顔でマットから降りてきた吉田選手は、そのまま私の目の前でずーっと伏して泣いていました。めったに見られないその姿を必死に捕らえようと集まるカメラマンたち。まだ日本の試合は続いているのに。

2日後に帰国しましたが、成田に到着しても、いつもの吉田選手の笑顔はありませんでした。今まで、負けて泣きじゃくるスポーツ選手たちはたくさん見てきたけれど、2晩寝ても元に戻らない選手と接したのは初めてでした。それだけ彼女にとっては、「勝ち続けて北京で金メダルを取る」ことが、大事な大きな目標だったのでしょう。私のように、しょっちゅう失敗したり、負けたりしている人間にとっては、「負けちまったものはしょうがない。つぎは頑張ろう」と、すぐに思えるのだけれども、負けたことない吉田選手にとっては、「オリンピックで負けたわけじゃないじゃないか」と気持ちを切り替えるのは大変なことだったのだと思います。

私は今まで何度くらい「しょうがないや」って納得してきたのだろう。相当たくさんだろうな。でも、よく考えると、吉田選手だってきっと今まで何度も「しょうがない」って感じたことはあったはずだから、「しょうがない」って思えなかったことのない私は、逆に言えばそれだけの大きな目標を持ったことがないのか? それとも、あったけれど楽天的すぎて忘れてしまったのか? わからなくなってきた。

―やりすぎないことも大切

医療の現場でも、「しょうがない」って考えることはありますよね。「病気になっちまったものはしょうがない」「がんになっちまったものはしょうがない」などなど、「しょうがない」ということが許されなくなったら、たぶん誰も医者をやれなくなってしまう。患者さんを前にしても「しょうがない、でも、そのあと最善を尽くそう。それしかないよ」という気持で治療するわけだけれど、必ずしも患者さんはそうは思えない。それを受け入れるのには、やっぱりある程度の時間が必要なことも多い。がんを告知したばかりの患者さんに向って、「しょうがないですよ」とは言えないものね。結局、「しょうがない」って思えるかどうかは、そのものの重要性とその人の立場に依るんだ。あたりまえのことだなあ。

今回も、女子レスリングに初めて帯同したトレーナーの楠原さんが、吉田選手が負けた当日、「先生、吉田にどう接すればいいでしょう?」と聞いてきました。私は、「いつもどおり、普通に接して、我々は淡々とすべき仕事をすればいいんだよ」と答えました。

メディカルスタッフとして、何とかしてあげなきゃ、とは思うけれど、一番大切なのはまず選手の気持ちを理解してやることで、選手から何かアプローチがあったら初めて動けばいい。特にスポーツの現場では、「やりすぎてかき乱さないこと」が大事です。大体こういうのはがんの告知とも同じで、時間や家族などが解決してくれます。

昨日、吉田選手の恩師である栄和人監督に電話したところ、「もう吉田は大丈夫だよ」とのことで一安心。レスリング協会のホームページでも、「多くの人から応援され、支えられていることを知った。この負けは北京オリンピックで金メダルを取るためと考えたい」とのコメントと共に、いつもの元気な吉田選手の写真が載っていました。よかった。一段と強くなって、北京では必ず金メダルを取ってくれるはずです。

 

今回も、またまた勉強になることだらけだったなあ。