なぜ私がこの道を選んだのか

2007年3月「e-resident」掲載~沖縄・プロ野球7球団のキャンプ地を巡り

―プロ野球のキャンプがスタート

先日は沖縄で行われている7球団のキャンプ地を巡ってきました。昨年から日本のプロ野球にも導入されている、「ドーピング検査」の説明のためです。「なぜ日本のプロ野球がアンチドーピングに真剣に取り組まなければいけないのか」を、選手たちに話してきました。みんな、キャンプでへとへとなのだろうけれど、眠りもせずに私の話に耳を傾けてくれました。

昨年まで社会人野球にいて今年からプロの世界に飛び込んだ連中とも久しぶりに会って、話をしましたが、みんな口をそろえて、「とても疲れます」と言っていました。そりゃそうですね。生活もがらりと変わって、結果を出さなければいつクビになるかもわからない厳しいプロの世界。プロに進むかアマにとどまるか、悩んだ選手もいたでしょう。一見、華やかそうに見えるプロの世界ですが、数年で去ってゆく選手のほうがよほど多いのですから、「プロ野球」という道を選択するには、みなそれぞれ勇気が必要だったはずです。

― 「道を選ぶ」

そう聞くと思い出される言葉があります。

昭和61年の3月、卒業式のあと松本の駅前のホテルで開かれた、医学部の卒業祝賀パーティーでのことです。

当時、信州大学の医学部長だった皮膚科の高瀬吉雄教授が、「無事卒業して医者としてスタートする君たちに、ぜひ言っておきたい事がある。これからの医者人生の中で、道を選ばなければいけないときが必ずある。そのときは、迷わず、困難な道を選びなさい」と挨拶されました。

お恥ずかしい話ですが、わたしは、このとき初めて「この人が高瀬教授だったんだ」と知りました。まあ、授業にあまり出た記憶がないからあたりまえです。

そんな私をよく卒業させてくれたなあ、とも思うのですが、ただ、この卒業パーティーでの高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は、6年間、講義で聞いた誰の言葉よりも鮮明に私の頭の中に残っています。話を聞きながら、「これから自分にはどんな選ぶべき道が待っているのだろう」とわくわくしながら聞いた事がよみがえります。

確かに、医者は他の職業に比べて、卒業して社会人になってからも「道を選ぶ」事がたくさんあり、その点は、恵まれていて幸せだなあ、と感じます。私にも、いままでにいくつかの選ばなければいけない道がありました。

道を選ぶときには、かならず、高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は頭をよぎりましたが、自分自身、困難な道を選んできたかどうかはわからない。この言葉は、「苦労するほうがそのあとの充実感や達成感があって、いい医者人生になりますよ」という意味だと私は理解していますが、そもそも、どちらの道が困難かどうかもわからない事が圧倒的に多い。「えいっ」と決めてしまうしかないのです。

―楽しいと思えるかは自分次第

東大病院時代、ベッドサイドの実習で担当した学生たちとよく飲みに行きました。学生たちと話をすると、「どうして小松先生は消化器内科を選んだのですか」と、必ず質問されました。

深い考えや判断があって自分の道を選んできたわけではないのです。地元の出身大学に残らずに東京に出てきたのは、「一度は都会に出てみたい」という気持ちでした。研修した日赤医療センターでは、大変お世話になった消化器内科の庵政志先生から、「お前は東大に入局しろ」といわれて、「すべて先生にお任せします」と答えて、東京大学の第二内科がどんなところかも知らずに入局しました。入局後、どういうわけか肝臓の類洞壁細胞の研究をしていた私は、赴任していらした小俣政男教授から、「胆膵の臨床をやりなさい」といわれ、内視鏡が自分にむいているかどうかも考えずに、試験管を置いて、ERCP屋になりました。あえて言えば、2年前、大学病院をやめてスポーツの世界に身を投じた事が私としては初めての決断だったのかもしれない。

だいたい、自分が何にむいているのか、なんてことは、やってみなければわからない。「この道を選んでよかった」と思えるかは、むしろ選んだ後、がんばるかどうかで決まってきます。結婚なんてまさにその最たるもので、「この女性が最高か」なんて事は、冷静に考えたら、本当はよくわからない。冷静に考えてはいけないし、お互いに冷静ではない状態になっているから結婚できるのでしょう。

「だから、君たちも、ここで俺と酒を酌み交わしてしまった事が運のつきだ。なにも考えずに消化器内科に決めなさい」、なんてことを、学生に話していたような気がします。

このエッセイを今読んでいる学生や研修医諸君、私のエッセイを読んでしまった事が「運のつき」です。あきらめて、スポーツ医学をやりなさい。「楽しい」と思えるかどうかは、君たち次第ですが、たぶん、きっと、楽しい。オススメしたいな。