日別アーカイブ: 2012年5月30日

五輪の裏側を探る

5月23日に第21回スポーツニッポンフォーラムが開催され、約200人を前に、「五輪の裏側を探る」のテーマで、パネリストとして参加してきました。

椎野茂さんの司会で、スポーツジャーナリストの二宮清純さん、競泳の萩原智子さんといっしょに、楽しく話をしてきました。

オリンピックに向けたコンディショニングの話、選手村の話、アンチドーピングの話、そしてロンドンオリンピックで選手村近くに開設される「マルチサポートハウス」の話などなど、あっという間の1時間でした。

そして、今日5月30日発売のスポニチでは、大きく見開きでそのフォーラムの特集が掲載されました。

大きな見出しで、小松氏「メリハリとコンディションンを崩さないことが一番大事」

小松氏はなかなかいいこと言ってるじゃん。

ちなみに、二宮氏「五輪は国家プロジェクト。すべての力の結集を」

萩原氏「北島選手には強さと優しさがある」

もう売っていないと思うけれど、どこかにころがっていたら読んでみてね!

女子レスリングワールドカップ

2007年4月「e-resident」掲載~ロシア、クラスノヤルツク・女子レスリングのワールドカップ

―女子レスリング王国日本

3月18日から25日まで、ロシアのシベリア地方、クラスノヤルツクで開催された女子レスリングのワールドカップに帯同してきました。

レスリングのワールドカップは、世界のトップチームによる団体戦。全階級(7階級)にわたる総合的な実力を競う大会で、世界選手権と並ぶビッグ大会。日本の女子は過去6回の大会のうち5回優勝していますが、今回は北京オリンピックでも金メダルが期待される吉田沙保里選手ら世界チャンピオンではなく、若手選手中心で臨みました。北京オリンピックの後も見据えた、「女子レスリング王国日本」を確固たる物にするための作戦です。

今回出場した7人の選手たちは、それぞれジュニアの世界チャンピオンや今年の1月におこなわれた天皇杯の全日本チャンピオンですが、吉田や伊調、浜口といった「とても強いお姉さんたち」がいるので、なかなか日の目を浴びません。しかし、今回、シニアの世界大会という数少ない与えられたチャンスで結果を出そうと一生懸命。試合に勝って大喜びする姿や、実力を発揮できずに悔し涙を流す姿を目の前で見ながら、「これからもしっかりサポートしてやらなきゃ」と強く感じたのでした。

シベリア・クラスノヤルスクは思っていたほどは寒くありませんでした。夜中に凍りついた道路の雪は、日中は解けて泥のようになっていましたから、おそらく日中の気温は0度を越えていたと思います。また、市内には水道管と同じように、暖房用の熱湯が各家庭や施設に供給されているそうで、屋内や体育館はとても暖かでした。かつて、この地を訪れたことのあるコーチによれば、「昔に比べたらだいぶきれいな近代化された町になった」とのことでした。

試合の結果は、初日の予選リーグで、ベラルーシ、ドイツをそれぞれ6対1で撃破し、翌日の決勝に進出しました。決勝の相手は、オリンピックチャンピオンを含むベストメンバーで臨んだ中国、残念ながら、1対6で敗れて銀メダルでした。詳しくは、日本レスリング協会のホームページ(http://www.japan-wrestling.jp/)を見ていただけたらと思います。

―初めてのレスリングシューズ

今回の大会、私ははじめてレスリングシューズを用意していただきました。もちろん、レスリングの経験もない私ですから選手たちとスパーリングもできませんが、レスリングシューズをはいて練習マットの上に立ち、「壁になる」という仕事をしました。試合前の練習会場は狭いので、ひとつのマットの上で何組もがスパーリングしなければいけません。選手たちは必死ですから、隣でスパーリングしている選手が目に入らないときもあります。ぶつかったり、交錯して怪我でもしたら大変。そのために、選手たちの間にはいるのです。木名瀬監督に、「先生、間に立っていてくれ」といわれて、そうしましたが、同じマットの上に立っているだけで、「一緒に戦っている」という一体感を感じる事ができます。特に今回は団体戦ですから、もちろん、監督の命令もその点を意識してのこと。

決勝戦のあとドーピング検査に立会い、そのあとホテルでバンケットがありました。今回の大会、ボランティアで日本チームの面倒を見てくれたオーリャーさんとイリアさんというロシア美女二人にウォッカの一気飲みを強要され、「これも国際親善」と調子に乗ったのが運のつき、私は泥酔状態でバタンキュー。翌朝は4時15分集合で帰国の途に着くことになっていたのですが、気がつくと時計は4時。大慌てでメディカルバックと自分のスーツケースに荷物を詰め込みロビーに向かいました。

空港までのバスの中、何か気分がわるいので脈を取ってみたら、二段脈、三段脈の連発で、たぶん心室性期外収縮だろうなとは思いながらも、ちょっと心配でバスの中ではずーっと脈を取っていました。やはり、不整脈というのはあまり気持ちがいいものではありませんなあ。選手たちに、「やっぱりドクターが一番手がかかる」などといわれては大変、と具合が悪いのをひた隠しにしながら、無事日本に到着したのでした。

 

※レスリングシューズをはいてマットの中央でこちらを向いて立っているのが私です。


なぜ私がこの道を選んだのか

2007年3月「e-resident」掲載~沖縄・プロ野球7球団のキャンプ地を巡り

―プロ野球のキャンプがスタート

先日は沖縄で行われている7球団のキャンプ地を巡ってきました。昨年から日本のプロ野球にも導入されている、「ドーピング検査」の説明のためです。「なぜ日本のプロ野球がアンチドーピングに真剣に取り組まなければいけないのか」を、選手たちに話してきました。みんな、キャンプでへとへとなのだろうけれど、眠りもせずに私の話に耳を傾けてくれました。

昨年まで社会人野球にいて今年からプロの世界に飛び込んだ連中とも久しぶりに会って、話をしましたが、みんな口をそろえて、「とても疲れます」と言っていました。そりゃそうですね。生活もがらりと変わって、結果を出さなければいつクビになるかもわからない厳しいプロの世界。プロに進むかアマにとどまるか、悩んだ選手もいたでしょう。一見、華やかそうに見えるプロの世界ですが、数年で去ってゆく選手のほうがよほど多いのですから、「プロ野球」という道を選択するには、みなそれぞれ勇気が必要だったはずです。

― 「道を選ぶ」

そう聞くと思い出される言葉があります。

昭和61年の3月、卒業式のあと松本の駅前のホテルで開かれた、医学部の卒業祝賀パーティーでのことです。

当時、信州大学の医学部長だった皮膚科の高瀬吉雄教授が、「無事卒業して医者としてスタートする君たちに、ぜひ言っておきたい事がある。これからの医者人生の中で、道を選ばなければいけないときが必ずある。そのときは、迷わず、困難な道を選びなさい」と挨拶されました。

お恥ずかしい話ですが、わたしは、このとき初めて「この人が高瀬教授だったんだ」と知りました。まあ、授業にあまり出た記憶がないからあたりまえです。

そんな私をよく卒業させてくれたなあ、とも思うのですが、ただ、この卒業パーティーでの高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は、6年間、講義で聞いた誰の言葉よりも鮮明に私の頭の中に残っています。話を聞きながら、「これから自分にはどんな選ぶべき道が待っているのだろう」とわくわくしながら聞いた事がよみがえります。

確かに、医者は他の職業に比べて、卒業して社会人になってからも「道を選ぶ」事がたくさんあり、その点は、恵まれていて幸せだなあ、と感じます。私にも、いままでにいくつかの選ばなければいけない道がありました。

道を選ぶときには、かならず、高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は頭をよぎりましたが、自分自身、困難な道を選んできたかどうかはわからない。この言葉は、「苦労するほうがそのあとの充実感や達成感があって、いい医者人生になりますよ」という意味だと私は理解していますが、そもそも、どちらの道が困難かどうかもわからない事が圧倒的に多い。「えいっ」と決めてしまうしかないのです。

―楽しいと思えるかは自分次第

東大病院時代、ベッドサイドの実習で担当した学生たちとよく飲みに行きました。学生たちと話をすると、「どうして小松先生は消化器内科を選んだのですか」と、必ず質問されました。

深い考えや判断があって自分の道を選んできたわけではないのです。地元の出身大学に残らずに東京に出てきたのは、「一度は都会に出てみたい」という気持ちでした。研修した日赤医療センターでは、大変お世話になった消化器内科の庵政志先生から、「お前は東大に入局しろ」といわれて、「すべて先生にお任せします」と答えて、東京大学の第二内科がどんなところかも知らずに入局しました。入局後、どういうわけか肝臓の類洞壁細胞の研究をしていた私は、赴任していらした小俣政男教授から、「胆膵の臨床をやりなさい」といわれ、内視鏡が自分にむいているかどうかも考えずに、試験管を置いて、ERCP屋になりました。あえて言えば、2年前、大学病院をやめてスポーツの世界に身を投じた事が私としては初めての決断だったのかもしれない。

だいたい、自分が何にむいているのか、なんてことは、やってみなければわからない。「この道を選んでよかった」と思えるかは、むしろ選んだ後、がんばるかどうかで決まってきます。結婚なんてまさにその最たるもので、「この女性が最高か」なんて事は、冷静に考えたら、本当はよくわからない。冷静に考えてはいけないし、お互いに冷静ではない状態になっているから結婚できるのでしょう。

「だから、君たちも、ここで俺と酒を酌み交わしてしまった事が運のつきだ。なにも考えずに消化器内科に決めなさい」、なんてことを、学生に話していたような気がします。

このエッセイを今読んでいる学生や研修医諸君、私のエッセイを読んでしまった事が「運のつき」です。あきらめて、スポーツ医学をやりなさい。「楽しい」と思えるかどうかは、君たち次第ですが、たぶん、きっと、楽しい。オススメしたいな。

忘れられない研修初日の思い出

2007年2月~イタリア・トリノ・冬季ユニバーシアード大会

―スポーツ選手も注射は苦手

イタリア・トリノ行われていた学生のオリンピック、冬季ユニバーシアード大会が終わりました。また、今週からは中国・長春で冬季アジア大会がはじまりました。冬の競技では、大会中にインフルエンザを発症した場合に成績に影響するのはもちろんのこと、隔離もままならない選手村の状況を考えて、インフルエンザの予防接種を行います。私が勤務する国立スポーツ科学センターでは、このような競技会に派遣する前のメディカルチェックを行っていますから、その際にインフルエンザの予防接種も行う、ということになります。

たくましい体つきの選手たちでも、やはり「注射」は苦手のようです。みんな、緊張した顔つきで私の前に腕を差し出します。終わった後、「前より痛くなかった」とか「思ったほど痛くなかった」と選手に言われると、うれしくなったりもします。

「注射」や「採血」というのは、おそらく、医者になってからはじめて行う医療手技です。そして、患者さんにとっては、医者から最もたくさん受ける医療行為。時として、毎日行われるこの行為がうまくいくかどうかは、患者さんにとって、とても重大であることは、言うまでもありません。

「採血を失敗しない」「点滴をいつも一発で入れてくれる」といったことで、患者さんの信頼を勝ち得た経験や、また、その逆の経験がある医者はとても多いと思います。

この「注射」に関して、私には、今から21年前、研修医として勤務した初日の忘れられない思い出があります。

大学を卒業してから東京に出てきた私は、渋谷区にある日赤医療センターで研修をスタートさせました。あのころ、あまり多くなかった、「スーパーローテート研修」があったことも魅力でしたが、大学を卒業するまで長野県を離れた事がなかった私は、「一度は大都会に出てみたい」という、医学とは全く関係のない、ふしだらな気持ちもあって、六本木にも近いこの病院を選んだのでした。

私の研修医生活はその日赤医療センターの8階西病棟で始まりました。消化器内科、血液内科、アレルギー内科の混合病棟でしたが、多くの患者さんが朝晩点滴を行っていました。もちろん針を刺すのは研修医の仕事です。消化器内科にはもうひとつ病棟がありましたから、そちらも含めて、毎日のべ80人くらいの患者さんに点滴の針を入れていました。

回診などを終え、9時過ぎから、看護婦さんと二人で、「点滴行脚の旅」が始まります。50人以上いるのですから、午前中は、ほとんどそれに費やしていたように思います。

研修初日、なんとか初回の点滴入れを終えて、ナースステーションでカルテを書いていた私に、さきほど一緒に回っていた看護婦さんが声をかけました。「先生、PSP試験にいきますよ」。PSP試験?確か、腎臓の検査だったような・・・、でもどうやるのかは知らない。すぐ横にいた研修医二年目の先生に、「PSP試薬を静注して、あとは看護婦さんがやってくれるよ」と教えてもらい、病室に向かいました。

患者さんの腕に駆血帯を巻き静脈を穿刺しました。ところが、静脈を穿刺したかどうかがわからないのです。最近は行わない検査のようなので補足しますが、PSP試薬というのは赤い色をしています。目で見ても赤い血の逆流がわからないのです。「あたっていない」と思い、針を抜きました。すると、今度はシリンジが勝手に滑り始めました。今のディスポのシリンジならありえないことなのですが、あのころは、ガラスシリンジを使っていました。シリンジを水平に保持していないと、内筒が動いてしまうので、穿刺の際には内筒も同時に持たなければいけなかったのでした。何とかシリンジを水平にして再び穿刺、でもあたらない。徐々に冷静さを失っていきました。

すると、その看護婦さんの手がシリンジに近づき、患者さんにわからないように身体でシリンジを隠し、無言で、あっという間に静脈内に針を入れてくれたのでした。患者さんは全く気がついていません。見事な早業。私は、赤い試薬を注入し終えると、ナースステーションに戻り、その看護婦さんにお礼を言いました。30半ばの、ショートカットで一見宝塚のスターのようなその看護婦さんは、何も言わずにニコッと微笑んで、ほかの病室に消えてゆきました。

―「教える側」と「教わる側

「少しは勉強して国家試験も合格して医者になったけれど、注射すらまともにできない」と痛感。同時に、なにもできない研修医を、罵倒することもなく、しかも、患者さんに苦痛も与えず、研修医を無言で教育する看護婦さんとそのテクニック。「患者さんのためにも、この看護婦さんのためにも注射がうまくならねば」と感じました。私の経験したなかで、最強の、心に残る、そして最も効果的な指導でした。

その晩から、私の目標は、まず「注射が上達すること」になりました。毎晩、いろいろな種類のガラスシリンジに針をつけ、シリンジの中には水道水を入れて、血管に見立てたゴムの駆血帯に針を刺しました。シリンジの持ち方も研究しました。内筒を押しても針先が動かないように練習しました。

今から考えると、この忘れられない思い出には、「教える側」と「教わる側」という二つの要素があります。少なからず、「これからしっかり勉強してまともな医者になろう」と思っていた私にとって、教える側と教わる側の想い、そのタイミング、がぴたりとはまりました。指導する立場からすると、「いかにしてその気にさせるか」が大事なことですが、教わる側も教える人間の気持ちを汲み取る努力が必要です。

研修中の皆さんは、忙しい指導医に、理不尽に怒られてむかつく事もあるかもしれない。でも、教えることはパワーが必要なのですから、なぜ教えようとしてくれているのか、ちょっと考えてみると、むかつき具合もきっと変わりますよ。