日別アーカイブ: 2012年5月15日

ドーハのアジア大会が終わった

2007年1月~カタール、ドーハ・第15回アジア競技大会

―金メダルを逃す瞬間

カタールのドーハで開催されていた第15回アジア競技大会が終わりました。日本選手団が獲得した金メダルは50個で、中国の165個、韓国の58個についで3位。目標であったメダル数は獲得したものの、柔道が不振だったことや団体球技で金メダルを獲得したのが女子ソフトボールだけだったことなど、北京オリンピックに向けた課題も残しました。

私がチームドクターとして帯同した野球チームは、「勝てば金メダル」という台湾との最終戦に逆転サヨナラ負けを喫し、残念ながら銀メダルでした。

全員がプロのオールスターチームの台湾に1点リードして迎えた9回裏、マウンド上には横浜ベイスターズに入団が決まっている日産自動車の高崎投手、スタンドには前日で試合を終え応援に来てくれた冨田選手や水鳥選手など体操の連中の姿もありました。野球が大好きな、「アテネオリンピック栄光の架け橋の金メダリスト」の富田選手、選手村で野球の連中と親交を深め、「台湾戦には応援にいくから」の約束どおり、スタンドから応援してくれていました。

ランナー2、3塁、こん身の力をこめて投じた高崎選手のストレートは無情にもレフト前にかじき返され二人目のランナーもホームを駆け抜け、熱戦が終わりました。マウンド上で泣き崩れる高崎健太郎、それを慰める選手たち、初回から降り続いていた雨はさらに激しくなってうなだれる選手たちに降り注ぎ、わたしもベンチで呆然とそれらを見つめていました。

「この風景、この感触、まったく同じだなあ」。そうです、もう6年も前になるシドニーオリンピック、延長で宿敵アメリカにサヨナラ負けを喫した女子ソフトボールの決勝戦を思い出していました。雨の中舞い上がったフライはレフトの小関選手のグラブから落ちました。泣き崩れるマウンド上の高山樹里、私は今回と同じように1塁側のベンチから呆然とそれを眺めていた。本来の力では劣っているかもしれない相手と互角以上に競い合い、でも手に入りかけた金メダルがするりと落ちてしまった瞬間、泣き崩れる選手たち、降りしきる雨、ベンチでそれを見つめる監督の姿、呆然とそれらを見ている私、すべてが同じでした。

今回のアジア大会、野球の全日本チームは全員アマチュアで大会に臨みました。社会人と大学生のチーム、みんながお互いに声を掛け合い、練習中も大きな声で励ましあい、本当にいいチーム。かたや台湾、韓国はメジャーリーガーも入ったプロ野球オールスターチーム、春に行われたWBC(ワールドクラッシックベースボール)の時とほとんど同じメンバーでした。

韓国戦では今年の韓国プロ野球MVP投手をノックアウトしマウンドから引き摺り下ろし、最後はセーブ王からサヨナラ3ラン、金メダルなら兵役免除のはずだった韓国選手たちの夢を打ち砕きました。台湾戦ももう少しのところだったのに・・・。

結果がすべてのスポーツの世界、「アマチュアが台湾、韓国のプロ野球オールスター軍団と戦っていい試合をした」ではなくて、「いい試合をして、しかも撃破して金メダルを取った」という結果を残したかった。本当に残念でした。同時に、単なるチームドクターでありながらこの場にいられる幸せも、また感じさせてもらいました。

―セパタクローで気分転換

いままでは、オリンピックやなどに行ってもほかの競技を応援に行くということはなかったのですが、今回は野球の連中を連れて「セパタクロー」の応援に行ってきました。張り詰めた気持の中、日の丸を背負って戦う2週間、選手村での共同生活でプライバシーもない。選手たちはものすごいストレスにさらされます。時として、「心のコンディショニング」も必要になります。こんなとき、選手村の外に選手たちを連れ出す引率役はたいがいドクターの仕事。10年前のアトランタオリンピックのときも、気分転換のために町のショーパブに選手たちを連れて行きました。もちろん、監督から「先生、よろしく頼む」と言われてのことですが。

今回のカタール・ドーハではそんなところはありませんから、昼間さわやかにセパタクローの応援です。セパタクローは籐で編んだボール(現在はプラスチック)を使って行う「足を使うバレーボール」のような競技。マレー語のセパ(蹴る)とタイ語のタクロー(ボール)でセパタクローと言うんだそうです。オリンピック競技ではないセパタクローの選手たちにとってこの4年に一度のアジア大会は最高の舞台となります。

セパタクローの第一人者である寺本進選手とは5年前に知り合いました。1994年に広島で行われたアジア大会から日本でも名前が知られるようになったセパタクローですが、そのとき広島の高校のサッカー選手だった寺本選手は広島アジア大会をきっかけにセパタクローに打ち込み始め、現在も貧乏な生活をしながら日本でのセパタクローの普及に一生懸命です。彼の頭は長い競技生活でボコボコに変形し、いつでも誰にでもセパタクローのことを話せるように、必ずボールを持ち歩いています。

初めて生で見たセパタクロー、そのスピード、迫力に驚きました。野球の連中と声をからして応援しました。これからもセパタクローや寺本を応援したいと思いました。

やっぱり、今回のアジア大会も、とっても楽しかったなあ。

 

 

アジア大会と社会人野球

2006年12月「e-resident」掲載~カタール、ドーハ・第15回アジア大会

―スポーツは人を育てる

今回はカタールのドーハからです。第15回アジア大会の選手村、日本選手団宿舎の7階の野球に割り与えられた部屋の中のリビングで書いています。

初日の練習を終え、目の前のソファーには監督の垣野多鶴さんが寝そべっています。垣野さんとは1996年のアトランタオリンピックでご一緒しました。私が帯同ドクターとして始めて参加したアトランタオリンピック、帯同ドクターの役割とは何なのかを教えてもらった大会です。垣野さんはそのとき打撃コーチでした。現在は社会人野球、三菱ふそう川崎の監督さんで社会人野球の最高峰である都市対抗野球で過去3回優勝に導いた名将です。

前回、体操の具志堅監督からお聞きした「スポーツや教育の最終目標は陶冶(とうや)すること」という話をしました。「人間を育て上げる」という目標がスポーツにはあるという話です。以前から、社会人野球の指導者の方たちからも同じような姿勢をとても強く感じていました。高校を卒業したばかりの選手に対して、野球だけでなく社会人としての姿勢を教える。だから、社会人野球からプロ入りした選手たちにはすばらしい選手が多い。いわゆる「素材がすばらしい」という選手はそのほとんどが高校時代から注目されプロの誘いをうけます。逆に言えば社会人野球からプロ入りした選手は、プロが素材を見抜けなかった、もしくは素材もたいしたことがなくて、プロからの誘いも受けなかった。しかしその後「努力して力をつけた」、もしくは「社会人野球が素材を見抜いて育てた」、ということができるでしょう。

ぱっと思い浮かぶだけでも社会人野球出身かつ現在現役で活躍している選手はたくさんいます。今年も活躍したソフトバンクの松中選手、日本ハムから巨人に移る小笠原選手、WBCでも活躍したテキサスレンジャースの大塚選手、アテネオリンピックのキャプテン、ヤクルトの宮本選手、ロッテのサブマリン渡辺俊介選手、西武のベンちゃんこと和田選手、日本選手のメジャーリーグ挑戦の先駆けとなった野茂選手やヤクルトの古田監督も社会人野球出身。

皆さん、毎年夏に東京ドームで開催される都市対抗野球を見に行ったことありますか?プロ野球や高校野球とは違った独特の雰囲気、派手な応援合戦、とてもいいですよ。チーム数がどんどん減り、昔ほどの勢いがなくなってきた社会人野球ですが、間違いなく日本の野球界にとって重要な存在です。これからも応援していきたいと思います。

今年、セリーグの首位打者、MVPを受賞した中日の福留孝介選手も社会人野球からプロ入りしました。高校時代からスター選手だった福留選手ですが、日本生命で社会人野球を3年間経験。当時、日本生命にはオリンピックに3回出場し「ミスターアマ野球」と呼ばれたピッチャー、杉浦正則選手がいました。熱血漢の杉浦選手のことですから、きっと、厳しく、優しく、社会人としての心得を教えたに違いありません。

先日、初代チャンピオンになったWBCの祝賀会が行われ、福留選手と久しぶりに話しました。「自分にとって社会人野球の3年間は決して無駄ではなかった。杉浦さんには本当にいろいろなことを教えてもらった」と福留選手は言っていました。

その杉浦選手、今年から日本生命の監督になりました。これからもたくさんの、「野球のうまい、まともな社会人」をたくさん育ててくれると思います。

―いざ、アジア大会へ

さて、今回のアジア大会ですが日本選手団は900人を超える大選手団です。2年後の北京オリンピックを見据えるととても重要な大会であり、各競技団体はオリンピックと同様のトップレベルの選手たちを送り込んでいます。

わが野球チームですが今回は全員アマチュア、社会人と大学生のチームです。かたや日本のライバルである韓国、台湾は全員プロでこの大会に臨みます。特に攻撃力ではライバルの2チームに比べると劣勢であるといわざるを得ない日本チームですが、プロにはないチームワークで、きっと勝ち進んでくれるでしょう。

昨日ドーハに到着、選手村に入りましたが、カタールは飲酒が禁止されている国です。当然お酒を選手村の中には持ち込むことはできません。実際に入村するときのチェックでも、スーツケースを開けられて、紙パックのまま持ち込もうとした焼酎などはことごとくばれてみんな没収されてしまいました。本部の医務が持ち込もうとした「消毒用アルコール」さえも没収されたそうです。まあ。2週間酒抜きの健康な生活をするのもいいかもしれない。

野球は開会式の前29日から戦いが始まります。選手みんながいいコンディションで試合に臨めるようしっかり仕事をしようと思います。

きっと今回も楽しいことがいっぱいあるだろうなあ。

スポーツと教育者

2006年11月号「e-resident」掲載~デンマーク、オーフス・体操世界選手権

―名監督から学んだこと

10月5日から23日まで、デンマークのオーフスで開催された体操の世界選手権にチームドクターとして帯同してきました。

アテネオリンピックでみごと金メダルに輝いた日本男子体操チーム、今回は世界選手権で久しぶりの団体優勝を目標にしての戦いでした。結果は、男子団体が銅メダル、富田選手が個人総合で銀メダル、種目別で富田選手が平行棒で銀メダル、という結果。団体金メダルは惜しくも逃してしまいましたが、いろいろな状況の中、選手たちはよくがんばったと思います。選手を支えるスタッフたちの見事な働きぶりも、再び感じることができました。

今回、男子体操の監督は1984年のロサンゼルスオリンピック・体操個人総合で金メダルを獲得したあの具志堅幸司さん。宿舎のホテルから食事会場、練習会場とそれぞれ徒歩で15分程度の距離でしたから、大会期間中、毎日のように具志堅監督と一緒に歩きながらたくさんのお話をさせていただきました。以前にも書きましたが、帯同ドクターは「付き添い医者」ではありません。競技種目やその場の状況によって、「現場が帯同ドクターに何を求めているか」は変わります。また帯同時だけでなく普段から、「スポーツの現場が医・科学に何を期待しているか」というわれわれの役割を理解することが大切なので、選手やスタッフとのコミュニケーションはとても大事です。その場が練習中であったり、散歩であったり、夜のスタッフとの飲み会であったりします。

現在日本体育大学の教授でもある具志堅監督、教育者としての哲学をたくさん教えていただきました。

「先生、陶冶(とうや)という言葉を知ってますか」

「スポーツや教育の最終目標は陶冶することです」

ホテルに帰る途中、二人で歩いていた大きな公園のなかで具志堅監督は私に言いました。

「陶冶とは陶器や鋳物を作るように、いろいろな試練を経て世の中で役に立つ一人前の人間を育て上げることです」

そんな話をお聞きしながら、「確かに私が今まで出会ってきた一流のスポーツの指導者たちはみんな厳格な教育者なんだよなあ、あの宇津木監督も選手のことはよく殴っていたけれど、選手を人間として一人前にする、てなことをよくおっしゃってたなあ」といろいろなことを思い出していました。単なる競技の技術、勝ち方を教えているのではなく、人生を教えようと努力している一流の指導者の方たち。

さて、自分だって1年半前まで大学の医学部の教官だった。教育者であったはずだし、今だって教育者だろう。人の命を預かる医者、その医者を育てる医学教育、はたして「陶冶する」という目標をもって医学教育にあたっていただろうか。たしかに、患者さんにムンテラしている最中に寝息を立てた研修医を患者さんが部屋を出たあとボコボコに殴ったことは2回ある。胆膵の弟子たちにはERCPのテクニックだけでなく挨拶の仕方も教えた。でも、そこまでの「人間を育てあげる」という強い思いが自分にあったのか。まあ、いろんなことが頭に浮かんできたのでした。

―選手をやる気にさせるキーワード

最近は「コーチング学」という分野もあるようですが、どうやって人に教えるか、どうやってその気にさせるか、ということも、スポーツ現場ではいろいろと勉強になります。ミーティングの際、選手に直接指導する際、監督やコーチたちがどのように語りかけているかとても興味があり、ひそかに耳を傾けています。たとえば野球でピンチのときに監督がマウンドまで行きピッチャーに声をかけることがありますよね。そんな時、監督はなんと言っているのか、また選手はどのように理解しているのか。試合のあとそれぞれに聞いてみるとこれもまたおもしろい。そのうちお話しましょう。

今回、団体戦の前のミーティングで具志堅監督が選手たちに語りかけたキーワードは、「笑顔」でした。「満足のゆく演技ができても、そうでなくても、笑顔を絶やすな。笑顔は相手チームにプレシャーを与え、自分たち味方には勇気を与えるんだ」、やはり体操も個人種目ではない、チームスポーツなんだ、と感じました。監督やコーチが試合前や試合中に選手に語りかけるひとこと、それを即座に理解する選手たち、その背景には、「世界一になるためにここまで一緒にやってきた」という大きな信頼関係があります。

昨日たまたま、今回は世界選手権にいけなかった体操選手とばったり会いました。「世界選手権をテレビで見ていたら、会場内に大きな声が響いてましたよ。顔は写らなかったけど、すぐに小松先生の声だ、ってわかりましたよ」といわれ、ちょっとうれしくなりました。

ああ、今回も長い遠征で疲れたけれど、楽しかったなあ。