月別アーカイブ: 2012年5月

五輪の裏側を探る

5月23日に第21回スポーツニッポンフォーラムが開催され、約200人を前に、「五輪の裏側を探る」のテーマで、パネリストとして参加してきました。

椎野茂さんの司会で、スポーツジャーナリストの二宮清純さん、競泳の萩原智子さんといっしょに、楽しく話をしてきました。

オリンピックに向けたコンディショニングの話、選手村の話、アンチドーピングの話、そしてロンドンオリンピックで選手村近くに開設される「マルチサポートハウス」の話などなど、あっという間の1時間でした。

そして、今日5月30日発売のスポニチでは、大きく見開きでそのフォーラムの特集が掲載されました。

大きな見出しで、小松氏「メリハリとコンディションンを崩さないことが一番大事」

小松氏はなかなかいいこと言ってるじゃん。

ちなみに、二宮氏「五輪は国家プロジェクト。すべての力の結集を」

萩原氏「北島選手には強さと優しさがある」

もう売っていないと思うけれど、どこかにころがっていたら読んでみてね!

女子レスリングワールドカップ

2007年4月「e-resident」掲載~ロシア、クラスノヤルツク・女子レスリングのワールドカップ

―女子レスリング王国日本

3月18日から25日まで、ロシアのシベリア地方、クラスノヤルツクで開催された女子レスリングのワールドカップに帯同してきました。

レスリングのワールドカップは、世界のトップチームによる団体戦。全階級(7階級)にわたる総合的な実力を競う大会で、世界選手権と並ぶビッグ大会。日本の女子は過去6回の大会のうち5回優勝していますが、今回は北京オリンピックでも金メダルが期待される吉田沙保里選手ら世界チャンピオンではなく、若手選手中心で臨みました。北京オリンピックの後も見据えた、「女子レスリング王国日本」を確固たる物にするための作戦です。

今回出場した7人の選手たちは、それぞれジュニアの世界チャンピオンや今年の1月におこなわれた天皇杯の全日本チャンピオンですが、吉田や伊調、浜口といった「とても強いお姉さんたち」がいるので、なかなか日の目を浴びません。しかし、今回、シニアの世界大会という数少ない与えられたチャンスで結果を出そうと一生懸命。試合に勝って大喜びする姿や、実力を発揮できずに悔し涙を流す姿を目の前で見ながら、「これからもしっかりサポートしてやらなきゃ」と強く感じたのでした。

シベリア・クラスノヤルスクは思っていたほどは寒くありませんでした。夜中に凍りついた道路の雪は、日中は解けて泥のようになっていましたから、おそらく日中の気温は0度を越えていたと思います。また、市内には水道管と同じように、暖房用の熱湯が各家庭や施設に供給されているそうで、屋内や体育館はとても暖かでした。かつて、この地を訪れたことのあるコーチによれば、「昔に比べたらだいぶきれいな近代化された町になった」とのことでした。

試合の結果は、初日の予選リーグで、ベラルーシ、ドイツをそれぞれ6対1で撃破し、翌日の決勝に進出しました。決勝の相手は、オリンピックチャンピオンを含むベストメンバーで臨んだ中国、残念ながら、1対6で敗れて銀メダルでした。詳しくは、日本レスリング協会のホームページ(http://www.japan-wrestling.jp/)を見ていただけたらと思います。

―初めてのレスリングシューズ

今回の大会、私ははじめてレスリングシューズを用意していただきました。もちろん、レスリングの経験もない私ですから選手たちとスパーリングもできませんが、レスリングシューズをはいて練習マットの上に立ち、「壁になる」という仕事をしました。試合前の練習会場は狭いので、ひとつのマットの上で何組もがスパーリングしなければいけません。選手たちは必死ですから、隣でスパーリングしている選手が目に入らないときもあります。ぶつかったり、交錯して怪我でもしたら大変。そのために、選手たちの間にはいるのです。木名瀬監督に、「先生、間に立っていてくれ」といわれて、そうしましたが、同じマットの上に立っているだけで、「一緒に戦っている」という一体感を感じる事ができます。特に今回は団体戦ですから、もちろん、監督の命令もその点を意識してのこと。

決勝戦のあとドーピング検査に立会い、そのあとホテルでバンケットがありました。今回の大会、ボランティアで日本チームの面倒を見てくれたオーリャーさんとイリアさんというロシア美女二人にウォッカの一気飲みを強要され、「これも国際親善」と調子に乗ったのが運のつき、私は泥酔状態でバタンキュー。翌朝は4時15分集合で帰国の途に着くことになっていたのですが、気がつくと時計は4時。大慌てでメディカルバックと自分のスーツケースに荷物を詰め込みロビーに向かいました。

空港までのバスの中、何か気分がわるいので脈を取ってみたら、二段脈、三段脈の連発で、たぶん心室性期外収縮だろうなとは思いながらも、ちょっと心配でバスの中ではずーっと脈を取っていました。やはり、不整脈というのはあまり気持ちがいいものではありませんなあ。選手たちに、「やっぱりドクターが一番手がかかる」などといわれては大変、と具合が悪いのをひた隠しにしながら、無事日本に到着したのでした。

 

※レスリングシューズをはいてマットの中央でこちらを向いて立っているのが私です。


なぜ私がこの道を選んだのか

2007年3月「e-resident」掲載~沖縄・プロ野球7球団のキャンプ地を巡り

―プロ野球のキャンプがスタート

先日は沖縄で行われている7球団のキャンプ地を巡ってきました。昨年から日本のプロ野球にも導入されている、「ドーピング検査」の説明のためです。「なぜ日本のプロ野球がアンチドーピングに真剣に取り組まなければいけないのか」を、選手たちに話してきました。みんな、キャンプでへとへとなのだろうけれど、眠りもせずに私の話に耳を傾けてくれました。

昨年まで社会人野球にいて今年からプロの世界に飛び込んだ連中とも久しぶりに会って、話をしましたが、みんな口をそろえて、「とても疲れます」と言っていました。そりゃそうですね。生活もがらりと変わって、結果を出さなければいつクビになるかもわからない厳しいプロの世界。プロに進むかアマにとどまるか、悩んだ選手もいたでしょう。一見、華やかそうに見えるプロの世界ですが、数年で去ってゆく選手のほうがよほど多いのですから、「プロ野球」という道を選択するには、みなそれぞれ勇気が必要だったはずです。

― 「道を選ぶ」

そう聞くと思い出される言葉があります。

昭和61年の3月、卒業式のあと松本の駅前のホテルで開かれた、医学部の卒業祝賀パーティーでのことです。

当時、信州大学の医学部長だった皮膚科の高瀬吉雄教授が、「無事卒業して医者としてスタートする君たちに、ぜひ言っておきたい事がある。これからの医者人生の中で、道を選ばなければいけないときが必ずある。そのときは、迷わず、困難な道を選びなさい」と挨拶されました。

お恥ずかしい話ですが、わたしは、このとき初めて「この人が高瀬教授だったんだ」と知りました。まあ、授業にあまり出た記憶がないからあたりまえです。

そんな私をよく卒業させてくれたなあ、とも思うのですが、ただ、この卒業パーティーでの高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は、6年間、講義で聞いた誰の言葉よりも鮮明に私の頭の中に残っています。話を聞きながら、「これから自分にはどんな選ぶべき道が待っているのだろう」とわくわくしながら聞いた事がよみがえります。

確かに、医者は他の職業に比べて、卒業して社会人になってからも「道を選ぶ」事がたくさんあり、その点は、恵まれていて幸せだなあ、と感じます。私にも、いままでにいくつかの選ばなければいけない道がありました。

道を選ぶときには、かならず、高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は頭をよぎりましたが、自分自身、困難な道を選んできたかどうかはわからない。この言葉は、「苦労するほうがそのあとの充実感や達成感があって、いい医者人生になりますよ」という意味だと私は理解していますが、そもそも、どちらの道が困難かどうかもわからない事が圧倒的に多い。「えいっ」と決めてしまうしかないのです。

―楽しいと思えるかは自分次第

東大病院時代、ベッドサイドの実習で担当した学生たちとよく飲みに行きました。学生たちと話をすると、「どうして小松先生は消化器内科を選んだのですか」と、必ず質問されました。

深い考えや判断があって自分の道を選んできたわけではないのです。地元の出身大学に残らずに東京に出てきたのは、「一度は都会に出てみたい」という気持ちでした。研修した日赤医療センターでは、大変お世話になった消化器内科の庵政志先生から、「お前は東大に入局しろ」といわれて、「すべて先生にお任せします」と答えて、東京大学の第二内科がどんなところかも知らずに入局しました。入局後、どういうわけか肝臓の類洞壁細胞の研究をしていた私は、赴任していらした小俣政男教授から、「胆膵の臨床をやりなさい」といわれ、内視鏡が自分にむいているかどうかも考えずに、試験管を置いて、ERCP屋になりました。あえて言えば、2年前、大学病院をやめてスポーツの世界に身を投じた事が私としては初めての決断だったのかもしれない。

だいたい、自分が何にむいているのか、なんてことは、やってみなければわからない。「この道を選んでよかった」と思えるかは、むしろ選んだ後、がんばるかどうかで決まってきます。結婚なんてまさにその最たるもので、「この女性が最高か」なんて事は、冷静に考えたら、本当はよくわからない。冷静に考えてはいけないし、お互いに冷静ではない状態になっているから結婚できるのでしょう。

「だから、君たちも、ここで俺と酒を酌み交わしてしまった事が運のつきだ。なにも考えずに消化器内科に決めなさい」、なんてことを、学生に話していたような気がします。

このエッセイを今読んでいる学生や研修医諸君、私のエッセイを読んでしまった事が「運のつき」です。あきらめて、スポーツ医学をやりなさい。「楽しい」と思えるかどうかは、君たち次第ですが、たぶん、きっと、楽しい。オススメしたいな。

忘れられない研修初日の思い出

2007年2月~イタリア・トリノ・冬季ユニバーシアード大会

―スポーツ選手も注射は苦手

イタリア・トリノ行われていた学生のオリンピック、冬季ユニバーシアード大会が終わりました。また、今週からは中国・長春で冬季アジア大会がはじまりました。冬の競技では、大会中にインフルエンザを発症した場合に成績に影響するのはもちろんのこと、隔離もままならない選手村の状況を考えて、インフルエンザの予防接種を行います。私が勤務する国立スポーツ科学センターでは、このような競技会に派遣する前のメディカルチェックを行っていますから、その際にインフルエンザの予防接種も行う、ということになります。

たくましい体つきの選手たちでも、やはり「注射」は苦手のようです。みんな、緊張した顔つきで私の前に腕を差し出します。終わった後、「前より痛くなかった」とか「思ったほど痛くなかった」と選手に言われると、うれしくなったりもします。

「注射」や「採血」というのは、おそらく、医者になってからはじめて行う医療手技です。そして、患者さんにとっては、医者から最もたくさん受ける医療行為。時として、毎日行われるこの行為がうまくいくかどうかは、患者さんにとって、とても重大であることは、言うまでもありません。

「採血を失敗しない」「点滴をいつも一発で入れてくれる」といったことで、患者さんの信頼を勝ち得た経験や、また、その逆の経験がある医者はとても多いと思います。

この「注射」に関して、私には、今から21年前、研修医として勤務した初日の忘れられない思い出があります。

大学を卒業してから東京に出てきた私は、渋谷区にある日赤医療センターで研修をスタートさせました。あのころ、あまり多くなかった、「スーパーローテート研修」があったことも魅力でしたが、大学を卒業するまで長野県を離れた事がなかった私は、「一度は大都会に出てみたい」という、医学とは全く関係のない、ふしだらな気持ちもあって、六本木にも近いこの病院を選んだのでした。

私の研修医生活はその日赤医療センターの8階西病棟で始まりました。消化器内科、血液内科、アレルギー内科の混合病棟でしたが、多くの患者さんが朝晩点滴を行っていました。もちろん針を刺すのは研修医の仕事です。消化器内科にはもうひとつ病棟がありましたから、そちらも含めて、毎日のべ80人くらいの患者さんに点滴の針を入れていました。

回診などを終え、9時過ぎから、看護婦さんと二人で、「点滴行脚の旅」が始まります。50人以上いるのですから、午前中は、ほとんどそれに費やしていたように思います。

研修初日、なんとか初回の点滴入れを終えて、ナースステーションでカルテを書いていた私に、さきほど一緒に回っていた看護婦さんが声をかけました。「先生、PSP試験にいきますよ」。PSP試験?確か、腎臓の検査だったような・・・、でもどうやるのかは知らない。すぐ横にいた研修医二年目の先生に、「PSP試薬を静注して、あとは看護婦さんがやってくれるよ」と教えてもらい、病室に向かいました。

患者さんの腕に駆血帯を巻き静脈を穿刺しました。ところが、静脈を穿刺したかどうかがわからないのです。最近は行わない検査のようなので補足しますが、PSP試薬というのは赤い色をしています。目で見ても赤い血の逆流がわからないのです。「あたっていない」と思い、針を抜きました。すると、今度はシリンジが勝手に滑り始めました。今のディスポのシリンジならありえないことなのですが、あのころは、ガラスシリンジを使っていました。シリンジを水平に保持していないと、内筒が動いてしまうので、穿刺の際には内筒も同時に持たなければいけなかったのでした。何とかシリンジを水平にして再び穿刺、でもあたらない。徐々に冷静さを失っていきました。

すると、その看護婦さんの手がシリンジに近づき、患者さんにわからないように身体でシリンジを隠し、無言で、あっという間に静脈内に針を入れてくれたのでした。患者さんは全く気がついていません。見事な早業。私は、赤い試薬を注入し終えると、ナースステーションに戻り、その看護婦さんにお礼を言いました。30半ばの、ショートカットで一見宝塚のスターのようなその看護婦さんは、何も言わずにニコッと微笑んで、ほかの病室に消えてゆきました。

―「教える側」と「教わる側

「少しは勉強して国家試験も合格して医者になったけれど、注射すらまともにできない」と痛感。同時に、なにもできない研修医を、罵倒することもなく、しかも、患者さんに苦痛も与えず、研修医を無言で教育する看護婦さんとそのテクニック。「患者さんのためにも、この看護婦さんのためにも注射がうまくならねば」と感じました。私の経験したなかで、最強の、心に残る、そして最も効果的な指導でした。

その晩から、私の目標は、まず「注射が上達すること」になりました。毎晩、いろいろな種類のガラスシリンジに針をつけ、シリンジの中には水道水を入れて、血管に見立てたゴムの駆血帯に針を刺しました。シリンジの持ち方も研究しました。内筒を押しても針先が動かないように練習しました。

今から考えると、この忘れられない思い出には、「教える側」と「教わる側」という二つの要素があります。少なからず、「これからしっかり勉強してまともな医者になろう」と思っていた私にとって、教える側と教わる側の想い、そのタイミング、がぴたりとはまりました。指導する立場からすると、「いかにしてその気にさせるか」が大事なことですが、教わる側も教える人間の気持ちを汲み取る努力が必要です。

研修中の皆さんは、忙しい指導医に、理不尽に怒られてむかつく事もあるかもしれない。でも、教えることはパワーが必要なのですから、なぜ教えようとしてくれているのか、ちょっと考えてみると、むかつき具合もきっと変わりますよ。

急に暑くなった日は熱中症に気をつけよう!

昨日5月23日は前日に比べ10℃近く最高気温が上がりました。

こんな日は熱中症に注意が必要です。

気温が30度を超えなくても、春先や秋、急に暑くなった日には熱中症による死亡事故も過去には起きています。

また、梅雨明けの急に暑くなったころに熱中症でたくさんの人が救急搬送されます。

「暑さに慣れる」ことも熱中症の予防には大事なこと。

今から真夏に備えて、「暑さに強いからだ」を作りましょう。

日本生気象学会では、「節電下の熱中症予防のための緊急提言」を発表しました。

暑さに強い身体を作るために、5-6月に、ややきついと感じる運動を1日30分間、週3回、4週間程度実施し、その運動直後にたんぱく質と糖質を含んだ食品(牛乳など)を摂取することを勧めています。

5月23日夕方のテレビ東京「NEWS アンサー

5月24日朝の日本テレビ「ZIP!

で、それぞれコメントしました。

なぜスポーツでは、大きな声を出すのか

友人のスポーツライター青島健太さんが「本の窓」に連載中のスポーツエッセイ、「素朴な疑問からスポーツを考える」

6月号、第13回は「なぜスポーツでは大きな声を出すのか」

これまた私の友達、マリナーズの川崎宗則。

元気いっぱいに大きな声を出して、意味のない日本語でアピールして掴み取ったメジャーリーグ。

スポーツで「大きな声を出せ」といわれるのは意味のあることなのか?

昭和大学の本間生夫先生は言う。「呼吸が変わると感情が変わる。感情が変わると呼吸が変わる」

「息が合う」とはどういうこと?

いつも通り、青島健太さんの、おもしろくてためになる、質の高いエッセイです。

私も、何回か登場します。

大きな声、大きな呼吸、そして呼吸を意識するという日本の文化、「能」

大きな本屋さんのレジあたりに一冊100円で売ってるみたいだから、ぜひ買って読んでくださいね。

ドーハのアジア大会が終わった

2007年1月~カタール、ドーハ・第15回アジア競技大会

―金メダルを逃す瞬間

カタールのドーハで開催されていた第15回アジア競技大会が終わりました。日本選手団が獲得した金メダルは50個で、中国の165個、韓国の58個についで3位。目標であったメダル数は獲得したものの、柔道が不振だったことや団体球技で金メダルを獲得したのが女子ソフトボールだけだったことなど、北京オリンピックに向けた課題も残しました。

私がチームドクターとして帯同した野球チームは、「勝てば金メダル」という台湾との最終戦に逆転サヨナラ負けを喫し、残念ながら銀メダルでした。

全員がプロのオールスターチームの台湾に1点リードして迎えた9回裏、マウンド上には横浜ベイスターズに入団が決まっている日産自動車の高崎投手、スタンドには前日で試合を終え応援に来てくれた冨田選手や水鳥選手など体操の連中の姿もありました。野球が大好きな、「アテネオリンピック栄光の架け橋の金メダリスト」の富田選手、選手村で野球の連中と親交を深め、「台湾戦には応援にいくから」の約束どおり、スタンドから応援してくれていました。

ランナー2、3塁、こん身の力をこめて投じた高崎選手のストレートは無情にもレフト前にかじき返され二人目のランナーもホームを駆け抜け、熱戦が終わりました。マウンド上で泣き崩れる高崎健太郎、それを慰める選手たち、初回から降り続いていた雨はさらに激しくなってうなだれる選手たちに降り注ぎ、わたしもベンチで呆然とそれらを見つめていました。

「この風景、この感触、まったく同じだなあ」。そうです、もう6年も前になるシドニーオリンピック、延長で宿敵アメリカにサヨナラ負けを喫した女子ソフトボールの決勝戦を思い出していました。雨の中舞い上がったフライはレフトの小関選手のグラブから落ちました。泣き崩れるマウンド上の高山樹里、私は今回と同じように1塁側のベンチから呆然とそれを眺めていた。本来の力では劣っているかもしれない相手と互角以上に競い合い、でも手に入りかけた金メダルがするりと落ちてしまった瞬間、泣き崩れる選手たち、降りしきる雨、ベンチでそれを見つめる監督の姿、呆然とそれらを見ている私、すべてが同じでした。

今回のアジア大会、野球の全日本チームは全員アマチュアで大会に臨みました。社会人と大学生のチーム、みんながお互いに声を掛け合い、練習中も大きな声で励ましあい、本当にいいチーム。かたや台湾、韓国はメジャーリーガーも入ったプロ野球オールスターチーム、春に行われたWBC(ワールドクラッシックベースボール)の時とほとんど同じメンバーでした。

韓国戦では今年の韓国プロ野球MVP投手をノックアウトしマウンドから引き摺り下ろし、最後はセーブ王からサヨナラ3ラン、金メダルなら兵役免除のはずだった韓国選手たちの夢を打ち砕きました。台湾戦ももう少しのところだったのに・・・。

結果がすべてのスポーツの世界、「アマチュアが台湾、韓国のプロ野球オールスター軍団と戦っていい試合をした」ではなくて、「いい試合をして、しかも撃破して金メダルを取った」という結果を残したかった。本当に残念でした。同時に、単なるチームドクターでありながらこの場にいられる幸せも、また感じさせてもらいました。

―セパタクローで気分転換

いままでは、オリンピックやなどに行ってもほかの競技を応援に行くということはなかったのですが、今回は野球の連中を連れて「セパタクロー」の応援に行ってきました。張り詰めた気持の中、日の丸を背負って戦う2週間、選手村での共同生活でプライバシーもない。選手たちはものすごいストレスにさらされます。時として、「心のコンディショニング」も必要になります。こんなとき、選手村の外に選手たちを連れ出す引率役はたいがいドクターの仕事。10年前のアトランタオリンピックのときも、気分転換のために町のショーパブに選手たちを連れて行きました。もちろん、監督から「先生、よろしく頼む」と言われてのことですが。

今回のカタール・ドーハではそんなところはありませんから、昼間さわやかにセパタクローの応援です。セパタクローは籐で編んだボール(現在はプラスチック)を使って行う「足を使うバレーボール」のような競技。マレー語のセパ(蹴る)とタイ語のタクロー(ボール)でセパタクローと言うんだそうです。オリンピック競技ではないセパタクローの選手たちにとってこの4年に一度のアジア大会は最高の舞台となります。

セパタクローの第一人者である寺本進選手とは5年前に知り合いました。1994年に広島で行われたアジア大会から日本でも名前が知られるようになったセパタクローですが、そのとき広島の高校のサッカー選手だった寺本選手は広島アジア大会をきっかけにセパタクローに打ち込み始め、現在も貧乏な生活をしながら日本でのセパタクローの普及に一生懸命です。彼の頭は長い競技生活でボコボコに変形し、いつでも誰にでもセパタクローのことを話せるように、必ずボールを持ち歩いています。

初めて生で見たセパタクロー、そのスピード、迫力に驚きました。野球の連中と声をからして応援しました。これからもセパタクローや寺本を応援したいと思いました。

やっぱり、今回のアジア大会も、とっても楽しかったなあ。

 

 

アジア大会と社会人野球

2006年12月「e-resident」掲載~カタール、ドーハ・第15回アジア大会

―スポーツは人を育てる

今回はカタールのドーハからです。第15回アジア大会の選手村、日本選手団宿舎の7階の野球に割り与えられた部屋の中のリビングで書いています。

初日の練習を終え、目の前のソファーには監督の垣野多鶴さんが寝そべっています。垣野さんとは1996年のアトランタオリンピックでご一緒しました。私が帯同ドクターとして始めて参加したアトランタオリンピック、帯同ドクターの役割とは何なのかを教えてもらった大会です。垣野さんはそのとき打撃コーチでした。現在は社会人野球、三菱ふそう川崎の監督さんで社会人野球の最高峰である都市対抗野球で過去3回優勝に導いた名将です。

前回、体操の具志堅監督からお聞きした「スポーツや教育の最終目標は陶冶(とうや)すること」という話をしました。「人間を育て上げる」という目標がスポーツにはあるという話です。以前から、社会人野球の指導者の方たちからも同じような姿勢をとても強く感じていました。高校を卒業したばかりの選手に対して、野球だけでなく社会人としての姿勢を教える。だから、社会人野球からプロ入りした選手たちにはすばらしい選手が多い。いわゆる「素材がすばらしい」という選手はそのほとんどが高校時代から注目されプロの誘いをうけます。逆に言えば社会人野球からプロ入りした選手は、プロが素材を見抜けなかった、もしくは素材もたいしたことがなくて、プロからの誘いも受けなかった。しかしその後「努力して力をつけた」、もしくは「社会人野球が素材を見抜いて育てた」、ということができるでしょう。

ぱっと思い浮かぶだけでも社会人野球出身かつ現在現役で活躍している選手はたくさんいます。今年も活躍したソフトバンクの松中選手、日本ハムから巨人に移る小笠原選手、WBCでも活躍したテキサスレンジャースの大塚選手、アテネオリンピックのキャプテン、ヤクルトの宮本選手、ロッテのサブマリン渡辺俊介選手、西武のベンちゃんこと和田選手、日本選手のメジャーリーグ挑戦の先駆けとなった野茂選手やヤクルトの古田監督も社会人野球出身。

皆さん、毎年夏に東京ドームで開催される都市対抗野球を見に行ったことありますか?プロ野球や高校野球とは違った独特の雰囲気、派手な応援合戦、とてもいいですよ。チーム数がどんどん減り、昔ほどの勢いがなくなってきた社会人野球ですが、間違いなく日本の野球界にとって重要な存在です。これからも応援していきたいと思います。

今年、セリーグの首位打者、MVPを受賞した中日の福留孝介選手も社会人野球からプロ入りしました。高校時代からスター選手だった福留選手ですが、日本生命で社会人野球を3年間経験。当時、日本生命にはオリンピックに3回出場し「ミスターアマ野球」と呼ばれたピッチャー、杉浦正則選手がいました。熱血漢の杉浦選手のことですから、きっと、厳しく、優しく、社会人としての心得を教えたに違いありません。

先日、初代チャンピオンになったWBCの祝賀会が行われ、福留選手と久しぶりに話しました。「自分にとって社会人野球の3年間は決して無駄ではなかった。杉浦さんには本当にいろいろなことを教えてもらった」と福留選手は言っていました。

その杉浦選手、今年から日本生命の監督になりました。これからもたくさんの、「野球のうまい、まともな社会人」をたくさん育ててくれると思います。

―いざ、アジア大会へ

さて、今回のアジア大会ですが日本選手団は900人を超える大選手団です。2年後の北京オリンピックを見据えるととても重要な大会であり、各競技団体はオリンピックと同様のトップレベルの選手たちを送り込んでいます。

わが野球チームですが今回は全員アマチュア、社会人と大学生のチームです。かたや日本のライバルである韓国、台湾は全員プロでこの大会に臨みます。特に攻撃力ではライバルの2チームに比べると劣勢であるといわざるを得ない日本チームですが、プロにはないチームワークで、きっと勝ち進んでくれるでしょう。

昨日ドーハに到着、選手村に入りましたが、カタールは飲酒が禁止されている国です。当然お酒を選手村の中には持ち込むことはできません。実際に入村するときのチェックでも、スーツケースを開けられて、紙パックのまま持ち込もうとした焼酎などはことごとくばれてみんな没収されてしまいました。本部の医務が持ち込もうとした「消毒用アルコール」さえも没収されたそうです。まあ。2週間酒抜きの健康な生活をするのもいいかもしれない。

野球は開会式の前29日から戦いが始まります。選手みんながいいコンディションで試合に臨めるようしっかり仕事をしようと思います。

きっと今回も楽しいことがいっぱいあるだろうなあ。

スポーツと教育者

2006年11月号「e-resident」掲載~デンマーク、オーフス・体操世界選手権

―名監督から学んだこと

10月5日から23日まで、デンマークのオーフスで開催された体操の世界選手権にチームドクターとして帯同してきました。

アテネオリンピックでみごと金メダルに輝いた日本男子体操チーム、今回は世界選手権で久しぶりの団体優勝を目標にしての戦いでした。結果は、男子団体が銅メダル、富田選手が個人総合で銀メダル、種目別で富田選手が平行棒で銀メダル、という結果。団体金メダルは惜しくも逃してしまいましたが、いろいろな状況の中、選手たちはよくがんばったと思います。選手を支えるスタッフたちの見事な働きぶりも、再び感じることができました。

今回、男子体操の監督は1984年のロサンゼルスオリンピック・体操個人総合で金メダルを獲得したあの具志堅幸司さん。宿舎のホテルから食事会場、練習会場とそれぞれ徒歩で15分程度の距離でしたから、大会期間中、毎日のように具志堅監督と一緒に歩きながらたくさんのお話をさせていただきました。以前にも書きましたが、帯同ドクターは「付き添い医者」ではありません。競技種目やその場の状況によって、「現場が帯同ドクターに何を求めているか」は変わります。また帯同時だけでなく普段から、「スポーツの現場が医・科学に何を期待しているか」というわれわれの役割を理解することが大切なので、選手やスタッフとのコミュニケーションはとても大事です。その場が練習中であったり、散歩であったり、夜のスタッフとの飲み会であったりします。

現在日本体育大学の教授でもある具志堅監督、教育者としての哲学をたくさん教えていただきました。

「先生、陶冶(とうや)という言葉を知ってますか」

「スポーツや教育の最終目標は陶冶することです」

ホテルに帰る途中、二人で歩いていた大きな公園のなかで具志堅監督は私に言いました。

「陶冶とは陶器や鋳物を作るように、いろいろな試練を経て世の中で役に立つ一人前の人間を育て上げることです」

そんな話をお聞きしながら、「確かに私が今まで出会ってきた一流のスポーツの指導者たちはみんな厳格な教育者なんだよなあ、あの宇津木監督も選手のことはよく殴っていたけれど、選手を人間として一人前にする、てなことをよくおっしゃってたなあ」といろいろなことを思い出していました。単なる競技の技術、勝ち方を教えているのではなく、人生を教えようと努力している一流の指導者の方たち。

さて、自分だって1年半前まで大学の医学部の教官だった。教育者であったはずだし、今だって教育者だろう。人の命を預かる医者、その医者を育てる医学教育、はたして「陶冶する」という目標をもって医学教育にあたっていただろうか。たしかに、患者さんにムンテラしている最中に寝息を立てた研修医を患者さんが部屋を出たあとボコボコに殴ったことは2回ある。胆膵の弟子たちにはERCPのテクニックだけでなく挨拶の仕方も教えた。でも、そこまでの「人間を育てあげる」という強い思いが自分にあったのか。まあ、いろんなことが頭に浮かんできたのでした。

―選手をやる気にさせるキーワード

最近は「コーチング学」という分野もあるようですが、どうやって人に教えるか、どうやってその気にさせるか、ということも、スポーツ現場ではいろいろと勉強になります。ミーティングの際、選手に直接指導する際、監督やコーチたちがどのように語りかけているかとても興味があり、ひそかに耳を傾けています。たとえば野球でピンチのときに監督がマウンドまで行きピッチャーに声をかけることがありますよね。そんな時、監督はなんと言っているのか、また選手はどのように理解しているのか。試合のあとそれぞれに聞いてみるとこれもまたおもしろい。そのうちお話しましょう。

今回、団体戦の前のミーティングで具志堅監督が選手たちに語りかけたキーワードは、「笑顔」でした。「満足のゆく演技ができても、そうでなくても、笑顔を絶やすな。笑顔は相手チームにプレシャーを与え、自分たち味方には勇気を与えるんだ」、やはり体操も個人種目ではない、チームスポーツなんだ、と感じました。監督やコーチが試合前や試合中に選手に語りかけるひとこと、それを即座に理解する選手たち、その背景には、「世界一になるためにここまで一緒にやってきた」という大きな信頼関係があります。

昨日たまたま、今回は世界選手権にいけなかった体操選手とばったり会いました。「世界選手権をテレビで見ていたら、会場内に大きな声が響いてましたよ。顔は写らなかったけど、すぐに小松先生の声だ、ってわかりましたよ」といわれ、ちょっとうれしくなりました。

ああ、今回も長い遠征で疲れたけれど、楽しかったなあ。

ダーレオーエン選手の突然の悲報

本当にびっくりしました。

競泳のアレクサンダー・ダーレオーエン選手の高地合宿中の突然死に関して、テレビとラジオでコメントしました

5月3日テレビ朝日「やじうまテレビ」

5月7日、FMラジオJ-WAVE

高所で突然死が多いとかスポーツ選手の高地合宿で突然死が多いというデータ・エビデンスはありません。

でも、きちんとメディカルチェックをして、チームドクターが一緒に帯同していても、だれでもこういうことは起こりうるというという教訓でもあります。

体調不良な時は無理はしないこと、それから、スポーツにかかわる人は救急蘇生・AEDの使い方をよく知っていること。

日本でも心臓突然死は年間5万人、アメリカで年間30-40万人、スポーツ選手が突然死すると目立つけれど、スポーツ選手が突然死しやすいということではありません。引き続きスポーツ中の突然死を防ぐ、そして万が一のためにスポーツにかかわるみんなが蘇生術を皆が学ぶ。

啓発を続けていきたいと思います。